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歌争

明日は国立能楽堂主催公演で「歌争」アドをします。

初めにこの曲を先代又三郎師にお稽古していただいたとき、型の稽古で、最後の相撲で負ける役が一回目と二回目で替わってしまいました。私と奥津くんとが相撲で組み合ってぐるぐるまわっているあいだに、先生が勘違いなさったようで。私たちも、あれ?と思ったのですが、そのままお稽古が仕上がってしまって謎のままに…
それ以来のことで、漸くほんとうの結末がわかりました。(笑)

それとは話がちがいますが、この話は大蔵流和泉流とも、シテとアドが入れ替わったり、言う台詞が入れ替わったり、いろいろになっています。お客様のほうでは、みるたびに違う、なんてことになるかもしれません。
又三郎家の本でも、シテがひとりでとんちんかんな事を言う仕方と、シテとアドでそれぞれ言うのと、二通り伝わっています。どちらのほうが面白いというほどの差はありませんが、演じかたがすこし変わってきますね。



昆布売 こぶうり

シテ・昆布売  アド・何某 (シテ・大名 アド・昆布売 などにも)

 七月七日の七夕。北野天満宮では「おちょうず」と呼ばれる御手洗(みたらし)祭があり、一人の侍(または大名)が出掛けます。

 家来が用事で留守なので、自分で太刀を持って出掛けますが、どうもこれは格好が悪い。ちょうど通りかかった若狭国小浜の昆布売りを呼び止めて無理に同行し、太刀を持ってくれないかと頼みます。もちろん昆布売りはそんなに暇ではありません。いろいろ言って嫌がるのですが、侍が太刀の柄に手をかけて脅すので、しぶしぶ持つことに。

 昆布売りは太刀の持ち方を教わって、褒められたりしているうちに、ちょっとその気になって「家来のように呼んでもいいですよ」と言います。しかし悪乗りした侍に、いきなり叱りとばすように命令されたものですから、とうとう腹を立て、太刀を抜いて侍を脅します。

 ここから立場逆転。昆布売りが家来になるどころか、侍は長裃すがたの昆布売りにされてしまいます。
 調子の良い売り文句に、「謡い節」「舞い節」「踊り節」とさまざまな節をつけた売り方を教わります。侍は器用にこなしているうちに、いつの間にかうきうきとしているようす。さあこれだけやったら太刀を返してくれるだろうと思いきや、昆布売りは太刀を持って逃げていってしまうのでした。

 御手洗祭に出かけるので夏の狂言ですが、そのほかに季節感はありません。もしかしたら昆布の行商に出るのもこの季節だったのでしょうか。昆布売の台詞に「毎年都へ昆布を商売に参る」とあり、「いつも都へ」ではないところも、ひょっとするとそういう意味なのかも?
北海道で採れる昆布が干され、北前船で若狭湾に運ばれ、小浜で加工され、そこから都へ、という行程だったそうです。ネットでちょっと調べましたが、時期的なはなしまではわかりませんでした。



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棒縛 ぼうしばり

シテ・太郎冠者 アド・主 二アド・次郎冠者

主人は、自分が他所へ出かけるたびに、太郎冠者と次郎冠者が酒を盗み飲むと聞いたので、先ず次郎冠者と相談をする。太郎冠者に近頃嗜む棒術をさせて、隙をみてその棒に縛りつけてしまう。続いて次郎冠者も後ろ手に縛り上げ、主人は出かける。
縛られた二人の冠者はまるで懲りもせず、縛られた格好のまま藏の戸を開け、酒壷の封をあける。さらに思案の末に酒を酌み、飲むことに成功する。
酒宴は盛り上がり、不自由な姿で舞をまい、ついには縄をも解いてしまうが、その間に主人は帰宅していた。しかし二人の冠者は、盃の酒に映る主人の姿を見てもまだ現状を理解せず、主人の執心が映っているなどといって謡い笑う。しまいに怒った主人に追いかけられ、二人は逃げてゆく。
後ろ手に縛られた次郎冠者は「七つになる子」、棒に縛られた太郎冠者は「暁の明星」を舞う。最後の謡は、能「松風」の一節。

wikipediaの件

wikipedia、狂言について、和泉流について、野村又三郎家について、どなたかがお書きくださっていることに感謝したします。

さてその内容ついて、じつは少し気になることもあるのですが、私がwikipediaの手直しをするのは面倒でもあり、かといって黙っているのもなんですので、ここでちょっと書きたいと思います。お書きくださった方、ごめんなさい。文句ではなくて、私と相談しているという程度のつもりでお読みいただければ嬉しいです。
和泉流野村又三郎家の説明について
引用
「明治維新後に名古屋、東京と移住を重ねた。十一世野村又三郎信英が不慮の戦死を遂げるなどしたために、派としてはやや少人数である(十二世の野村又三郎信廣は2007年に死去し、現在は野村又三郎信行が2011年に十四世を襲名した)。」
とあります。
さてまず明治維新後ですが、大阪、東京と移住を重ねています。
次に信英が不慮の戦死を遂げるとありますが、これはどうでしょうか。兵隊が戦地で亡くなったように読めますが、時期は戦時中ながら、非戦地で亡くなった民間人です(死因までは伺っていませんが)。ですから、「…などしたために…少人数」というのも、ちょっと?です。
その次は重箱の隅をつつくようで申し訳ありません。「(十二世の…襲名した)」は、どなたか書き足されたのだろうと思いますが、()に入れなくてよいのではないでしょうか。
最後に、又三郎家のことだけではありませんが、芸風については私としてはほとんどどれもちょっと?です。お書きになったかたの主観になってしまいますので。特に式楽というものについてのイメージは、ひとそれぞれでしょうから。たとえばインタビューや本で役者本人が心がけている主義主張を紹介するのが良いのではないかと思いますがいかがでしょう。

先日の公演

Act of Betrayal 無事に2公演終了いたしました。ご来場いただいた皆様ありがとう御座いました。

オペラやパントマイム、洋楽、邦楽、そして能の方と、それぞれがいつもの自分の舞台とは違うところに立ち、演技をすることで、そこでそれぞれの人が出してくる「自分のもの」が見られて大変興味深い体験になりました。
曖昧な話になってしまいますけれど、ちょっと具体的に言えば、やはり能狂言の私たちが活用したのは、『間(ま)』というものだったと思います。日本の文化の「間」なんてことは、それこそ手垢が付いたほどの月並みな言葉ですが、改めて実感しました。
間は、あいだをとった空白とか、何もしない時間ではなくて、間に意味を持たせる。むしろ、せりふや動作という説明以上の演技がそこにある、というぐらいの意味をこめます。
最初は渡された台本のせりふを読み合わせ、普段の古典とは語彙も発声も抑揚も違って、まったく自分の言葉にならない、どこから声が出ているのやらという感覚で言っていたものですが、何度もやって考えているうちに、「間」を作っていうようになる。すると俄然自分の言葉になってくるのです。これは本当に面白いものです。
もうひとつ私達が使った能楽の技術は、「じっとしていること」でしょうか。これもまたいろんな意味があります。他の人がせりふを言っているあいだ、ただじっとしているということもあります。そのあいだにも、自分がここにどれぐらいの重さで存在しているのかを考えて、存在感を薄めたり、逆にしっかりといたりします。じっとしているだけですから違わないのかもしれませんが、意識が違うのです。
また、じっとしていることは動作の「間」でもありますから、これまた先ほどのせりふと同じ意味が出てきます。
そんなわけで、シテ方の浅見慈一さん、私たち狂言の二人は、本番が近づくにつれて、どんどん場面の時間が長くなっていってしまったのでした。笑
また狂言というのはオペラと能のあいだを行ったりきたりするのにとっても便利なもの(というか、そういう技術を持った芸能)なんだなということもわかりました。常々本狂言で主役にもなり写実風な演技もし、また能の間狂言として様式的な語りをし、一曲の中で出過ぎず、つなぎ役という立場を考えた演技もしているので、こういうことに対応しやすいのではないかと思います。
これが仮に、オペラと狂言のあいだを能のシテ方が行ったりきたりするってのは考えにくいよねと、奥津くんと話して笑いました。
今回の劇に参加したことは、新しい体験ということも貴重だったのですが、自分たちの普段やることを改めて見直すということに、とても有効な体験だったのでした。
整理しない殴り書きで失礼致しました。

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