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先日の公演

Act of Betrayal 無事に2公演終了いたしました。ご来場いただいた皆様ありがとう御座いました。

オペラやパントマイム、洋楽、邦楽、そして能の方と、それぞれがいつもの自分の舞台とは違うところに立ち、演技をすることで、そこでそれぞれの人が出してくる「自分のもの」が見られて大変興味深い体験になりました。
曖昧な話になってしまいますけれど、ちょっと具体的に言えば、やはり能狂言の私たちが活用したのは、『間(ま)』というものだったと思います。日本の文化の「間」なんてことは、それこそ手垢が付いたほどの月並みな言葉ですが、改めて実感しました。
間は、あいだをとった空白とか、何もしない時間ではなくて、間に意味を持たせる。むしろ、せりふや動作という説明以上の演技がそこにある、というぐらいの意味をこめます。
最初は渡された台本のせりふを読み合わせ、普段の古典とは語彙も発声も抑揚も違って、まったく自分の言葉にならない、どこから声が出ているのやらという感覚で言っていたものですが、何度もやって考えているうちに、「間」を作っていうようになる。すると俄然自分の言葉になってくるのです。これは本当に面白いものです。
もうひとつ私達が使った能楽の技術は、「じっとしていること」でしょうか。これもまたいろんな意味があります。他の人がせりふを言っているあいだ、ただじっとしているということもあります。そのあいだにも、自分がここにどれぐらいの重さで存在しているのかを考えて、存在感を薄めたり、逆にしっかりといたりします。じっとしているだけですから違わないのかもしれませんが、意識が違うのです。
また、じっとしていることは動作の「間」でもありますから、これまた先ほどのせりふと同じ意味が出てきます。
そんなわけで、シテ方の浅見慈一さん、私たち狂言の二人は、本番が近づくにつれて、どんどん場面の時間が長くなっていってしまったのでした。笑
また狂言というのはオペラと能のあいだを行ったりきたりするのにとっても便利なもの(というか、そういう技術を持った芸能)なんだなということもわかりました。常々本狂言で主役にもなり写実風な演技もし、また能の間狂言として様式的な語りをし、一曲の中で出過ぎず、つなぎ役という立場を考えた演技もしているので、こういうことに対応しやすいのではないかと思います。
これが仮に、オペラと狂言のあいだを能のシテ方が行ったりきたりするってのは考えにくいよねと、奥津くんと話して笑いました。
今回の劇に参加したことは、新しい体験ということも貴重だったのですが、自分たちの普段やることを改めて見直すということに、とても有効な体験だったのでした。
整理しない殴り書きで失礼致しました。

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